木村拓哉は「キムタク」のOthersideへ
この映画を見て「木村拓哉」について思ったことを140文字にしてツイートしようとしたら全然まとまらなかったのでブログにしました。
ネタバレとか気にせず書くので、回避したい方は気を付けてください。
(とはいえストーリーにはそんなに触れてませんでした。木村拓哉論が大半です。 )
(ネタバレ回避用余白)
(ネタバレ回避用余白)
(ネタバレ回避用余白)
見終わって真っ先に終わったのは「SMAPの肩書が取れた『木村拓哉』が見れた…」でした。
木村拓哉の演技の話になると、しばし「キムタクっていつもおんなじ演技でつまんないじゃん」と言われてきました。こちらとしては、「そのキムタクが見てえんだよ!」と啖呵切ってましたけどね。
でもそれって、木村拓哉の演技が同じなんじゃなくて、役柄というか、役のパーソナリティと物語の進行に統一性があったんだな、と気づきました。特に職業モノシリーズになってから。
軽くスカした態度…いざという時にマジになる目…組織の理論にも真正面から正論で挑み…最後は苦笑い…そしてどんな時でもカッコつけてる…
これが「キムタク」だったし、こちらもこれを、弁護士とかパイロットとか総理大臣とかで見たかったのです。
解散後のTVドラマ「BG~身辺警護人~」は、ばっちりこの「キムタク」でした。
SMAPじゃなくても「キムタク」ができるんだ!とこれはこれで嬉しかったのも事実。
しかし、これらの「キムタク」は「検察側の罪人」では出てきませんでした。
もちろん正義感はあるし、力強い意思を感じることもあるけれど、それ以上に過去に囚われたり、「組織の論理」に巻き込まれたり、身勝手な嘘をついたりする。邪魔者はどんな手を使っても排除するし、陰謀論のようなものに惑わされたりもする。
まさに、従来の「キムタク」が対立するような相手です。
(あと、細かいことだけれど、「娘」がいる役柄だったりもするのが新鮮…)
何よりも「自分の身勝手な意志で、取り返しようのない罪を犯す」という、新たな、そしてとても難しい役柄を、ある主「かっこよさ」を捨てて表現しました。あの真犯人を射殺するシーンの木村拓哉の情けなさは、本当に僕の心のやらかい場所をいまでもまだ締め付けます。
今回の「木村拓哉」は、「キムタク」へのアンチテーゼだと思いました(。
それも「キムタク」時代を否定して成立するものではなく、「キムタク」を経て、そのうえで自分自身の表現を反転させて体現しているところが、本当に格好いいと思います。
まさに、Othersideへ行ってるんですね…
冷静に考えると、「BORDER」の小栗旬的な役柄なので、そんな突飛な役でもないし、なんで今までできなかったんだ、という疑問も、単純に浮かんできます。SMAPのままでもいずれ今回の役柄に挑戦する機会があったかもわかりません。それは今となっては何とも言えないことだけれど、でも原因の一端はこれまで我々視聴者が(事務所が?)課してきた「キムタク」というパブリックプレッシャーだったのかな、それがグループが無くなったことで変わったのかな、と思いました。
「解散して後がないから(立場が悪いから)、あえてそういうこれまでと違う逆張りをして話題性狙ってるんだろ?」という悪意を持った捉え方もできると思います。
当たってるかもしれないですが、しかし自分は「逆張り」はSMAPの得意技だと思います。ハゲてると言われればシャンプーのCMに出て、酒で逮捕されれば「帰ってきたヨッパライ」を歌い、おじさんとの同棲を噂されればコントにする…単なる「逆張り」ではなく、それをちゃんと説得力を持って「成立」させる実力があるのがSMAPの強みです。
とはいえ、割と木村拓哉はSMAPの中でも「逆張り」担当する機会が少なかったのも事実(結婚して「らいおんハート」が爆売れしたくらい・・・?)。なので、今回はそういった意味では、木村拓哉がSMAPの看板を下ろして挑戦した結果、SMAPらしい挑み方が出来た、という不思議な現象が起きてるのかもしれません。
んー、もちろんSMAP大好きですし、SMAPの木村拓哉も大好きです。でも解散(あえてこの単語を使う)という大きな変化がなければこの木村拓哉を見ることは出来なかったと思う、と感じました。
そして、この木村拓哉を見ることができて良かったと思いました。
歳もとったし(直前に1994年録音の「花より男子(花沢類役:木村拓哉(主演))」のオーディオドラマ聴いてたせい)、かっこ悪いところも出したけれど、それでも木村拓哉にしか出せない「凄み」というか「まっすぐな圧」というか「説得力」があって、木村拓哉は「キムタク」を脱いでも、木村拓哉なんだな、とも思いました。
稲垣吾郎さんも文春の阿川さん対談で「グループとしての仕事がないぶんいまは多少の時間の余裕があって」と、仕事の変化を述べていました。木村拓哉も何度も「ソロ」としての心境を問われてきたと思いますが、今回それを演技で示してくれたと感じています。
SMAPの解散は悲しい(今でもウダウダ引きずってる自分もいますし)し、この木村拓哉を見れたからって悲しみがすべてチャラになるわけではないけれど、今の状況下において、この木村拓哉を見れたのは本当によかったな、とポジティブな気持ちです。
そして、とりあえず今は、木村拓哉の「木村拓哉」としての挑戦を応援したいという気持ちです。それがどんな方向に進むのか、わかりませんけどね。
あと二宮和也はいつでも叫ぶ演技がすごい。「流星の絆」とか特に印象に残ってるけど、大声で迫るシーンやらせたら日本一ですね。
ついでにいうと二宮和也がいつもの「俳優・二宮和也(≠ニノ)」で居てくれたから、木村拓哉の反転がよく見えたというのもある。ありがとう二宮和也。それはきっと幻じゃない。
ストーリーとしては連ドラ1クール見たかと思うほど濃密で展開の早く、時代の流れも汲んでて、話が転がっていくほど、本当に心苦しかったです。見逃しているところとかもあると思うし、もう1回行きたいな…。
ギャン泣きしてる子供見たら宝くじ買って帰ろう
ふと拝見した「そばうどん両方食べたいとギャン泣き⇒いざ注文来たら来たで、帰りたいとグズる子供」のツイート(下記)で思ったんですけど、
今日の夕ごはんはうどんだったんだけど、行ったお店で子どもがギャン泣きしてて「うどんもそばも両方食べる!」と激しく主張。親は困り果て「わかった、両方頼もう」と子どもの要求に従ったんだけど、いざ両方テーブルに並んだら、一口も食べずに「帰りたい」とグズり出した。子育てってたいへんだよ!
— 伊藤聡 (@campintheair) 2018年7月29日
少し話せるようになった子供の要求って必ずしも論理的じゃない・本心じゃない(嘘をついてるとは別です)時があるじゃないですか、語彙も限られてるし。
この点がしっかり理解、あるいは周知されてないために、色々と辛くなってる気がするんです。(当方、現在3歳と0歳育児中です。)
ここからはシチュエーションを利用した想像になるので元ツイートとは無関係という点をご理解いただいた上で読んで欲しいのだけれど、例えばこれくらいの「微妙」なことでカオスが起きる、という想定できいてほしいです。
例えば…
- 子供は、ごはんは自宅で食べるのが好きだけど、外食も問題なく出来る。うどんや蕎麦も喜んで食べたこともある。
→親としては「ここで食べて欲しい」という願いが、小さな「力み」になる。
- 時間、距離的にここで食事を済ませておきたいという、微妙な大人の事情。ちょっと外出先を出発するのが遅れたとか、道路事情とか。
→これも親の「力み」に繋がることがあり、この「力み」の蓄積が子供の心を不安定にする(なんかいつもと違う親に見える)。
- うどん屋さんは子供用食器はあるが、現在の身体の大きさにジャストフィットな椅子が無かったりして、不足はないが、万全ではない。また、子連れ向けではない、落ち着いた雰囲気の店。
→客観的には「子供用設備OK!」かも知れないが、親・子それぞれに軽微な違和感をもたらす。
→この「力み」や「違和感」で帰りたい子供vs食事済ませたい親の利害がぶつかり、ギャン泣きとして表層化。
- 親としては、ここで何の問題もなく食事を済ませて欲しい。そこで「うどんも、そばも両方」というワガママを受け入れ、譲歩したい。
→子供も「譲歩」し精一杯の要望を出してみるものの、一方で子供としては妙に優しい親に違和感を覚え、更には自分の要求が受け入れられたという成功体験が残る。 - あと子供としても、きっと言うほどではないんだけど、なことが色々ある。
→「さっきのおもちゃ屋さんでもうちょっと遊びたかった」、「机の上に置いてあるつまようじの箱の中をのぞきたかったのを止められた」、「実は少しトイレ行きたいけど言い出せない」、「車にお気に入りのお人形おいてきちゃった」、「実はおそばはそんなに食べたくない」、「なんかなれない雰囲気の店だし居心地悪い」、「親がやっぱりなんかちょっと変」とかね!こんな感じで小さいフラストレーションの種が蓄積してることもある。 - 子供は、自分のワガママが受け入れられたため、「食事よりもこの場を去りたい」という要求を出してみる(※これがたまたま食事が配膳されたタイミングだったりする)。
→親としては今更ココで食事をしないというオプションは受け入れられるはずもなく、譲歩したのに、という気持ちも相まって、厳しめに食べるように促す。
→子供としてはこれまで妙に甘かった両親が、切り札を切った段階で急に厳しく叱りつけてきたと思う
→更にギャン泣き。
…というような想像が出来てしまうくらい、このツイートのような状況って「あるある」なんですよね。
で、こういう『子供の「ワガママ」に苦戦する親』問題の話になるとどこからともなく出て来るのが、謎のコンサルおじさん。
※以下は想像です。
「子供の要求をしっかりと聞いたのか?本当にうどんとそばが食べたかったか確認したのか?」
「自宅まで帰らなくても、以前大人しく食べた店などがもっと近い距離にあるのでは?」
「普段から外出先では大人しくするようにしつけるべきではないか」
「ワガママを中途半端に受け入れるから、要求がどんどん大きくなるのであって…」
うっさい!!!!!
そういうの今いいから!黙ってて!!
子供だってそれなりに頑張って、自分の伝えられる言葉の中から、その時の気分でちゃんとした答え出してくれとるわ。それでも気移りしたり、拒絶モードになったり、いろいろするのですよ。まだ子供なのだから(©キングオブコメディ今野)。
親だって子供にギャン泣きされないように最善を尽くしてるわ。とはいえ生活だってあるわ!ギャン泣き回避を最優先にしてたら、他がはみ出すやろ!帰宅してからの風呂の時間や睡眠サイクル、今頼んだ食事の代金とか色々と狂うやろ!ギャン泣き回避補助金でも出るんか?
サウンドノベルじゃないんだから、常に正しい(ギャン泣き回避の)選択肢があるわけじゃないんですって。
前回ニコニコしながらうどん食べたからって、今日も泣かないで食べるとは限らないわけです!理由?分かりませんよそんなの。本人(子供)だってよく分からない上に、的確に説明出来ないんだから。
そんな曖昧な状況を何とかしようとしてるときに、コンサルおじさんの「推定に基づく断定」とか、邪魔でしかないんですよ!こっちは構造不明の黒ひげ危機一発に少ない手持ちの剣を祈るように刺して、黒ひげが飛び出す(泣き止む)ようにと祈ってるの!
ここで「以前はおせんべいで泣き止んだじゃないか」(今から食事だっつの!)とか、「本当に子供の食べたいメニューはうどんとそばだったのか?」(今それいわれても!)とか言われたりしたら、クッソイライラするんですよね。
この「コンサルおじさん」が身内(たとえば父親とか、祖父母とか!)の場合は苦労しますよね…更に「コンサルおじさん」のまま、「俺は子育てしてきた」と思って若い世代の子育てを邪魔してる上司も….これはまた別の話。
で、話を戻すと、ギャン泣きは不条理。この「なんで子供ギャン泣きしてるんだろ」「なんでギャン泣きしてるのに親は何もしないんだろ」な現象って、親になって体験したところでも、その理由(メカニズム)がよく分からないんですよね。この「親にも分かんない」が一般的には知られてないことがしんどいのではないかと。
街で年長者の方がギャン泣きベイビーズをニコニコ見守ってるのって、単に「小さい子元気で可愛いね」っていうことかと思ってたんですけど、それだけじゃなくてこの状況の中で「分かる分かるよキミの(親でも泣いてる理由がわからないという)気持ち」という(小池徹平的な)視線もあるんじゃないだろうか。つまり、「経てる」。
だからもうこういう子供のギャン泣きとかって、周囲としてはガチャに当たったようなものだと思うのが良いんじゃないですかね。
もう確率論的な何かと思ってさ!
そんでもう「いいもん見た」と思って宝くじ買って帰るか、スマホゲーでレアガチャ引くのがベストなんじゃないですかね。
つんく♂だったらきっとこの後「外食するんだ」か「帰りにうどん食べてくわ」だろうけど、あいにくこの場合外食中にうどん食ってるわけだから。もう宝くじですよ。
上の想定で書いたように、実際はきっと細かい理由の積み上げなんですよ。でもその理由を知るのも大変(不可能)だったり、解消できない理由があったり、一つ解消すると別の問題が起きたりするんです。
(例えば根気よく聞き出して、本当は「カレーうどん」が食べたいと判明し、注文することで一時的にギャン泣き回避できたとしても、その後には
→親には「服にカレー掛かるかも」ストレス、掛かったらイライラ
→子には「時間かかりすぎ」「早く食べたい」ストレスがプラスオン
→新たなギャン泣きルートへ、とかね)
少し話せる子供でコレなんですから、まだ喋れない子供のギャン泣きなんて防ぎようがないですよ。ほんと。ガチャです。ガチャ。
少し話せる子供としても、語彙や説明力もそんなにあるわけじゃないのに、「会話が成立する」からと「伝えることが出来る」と思われてるのに、「実際は伝えられない」のってしんどいと思うんですよ。
もちろん、中には例外もあるかも知れないけれど、子供を公共の場でギャン泣きさせたい親は居ないし、ギャン泣きして申し訳なく思わない親は居ないんですよ。
などということを思ったのでした。
子供たち、どんどん泣こうぜ!大人たち、どんどんガチャ引こうぜ!
嵐はメンバー主演作タイアップばかりCD出すのやめて
7月25日発売の嵐の新曲「夏疾風」超楽しみですよね。
単に「嵐の新曲」としても楽しみなのですが、更にこれがメンバーの個人出演作品タイアップじゃないから、という期待もあります。(2018 ABC夏の高校野球応援ソング/「熱闘甲子園」テーマソング)
いや、嵐各メンバーの出るドラマとか映画とか、好きです。に主演するのすごくうれしいですし、見ますし。
でも同時に「嵐の曲」が大好きな身としては、「メンバー出演作品タイアップばっかりで、シングル作品が個人に紐付き過ぎじゃね?」という思いもあるのですよ。
そりゃ、「花より男子」のWISH⇒Love so sweet⇒One Loveのコンボでドラマもグループも売れたのはすごい良かったですよ。このやり方は大正解だったと思います。でも、それ続けられちゃうと、やっぱりどうしてもシングル曲と特定のメンバーが関連されて思い出されちゃうというか、「明日の記憶」聴いても、かすかに「あの櫻井翔のドラマの決めポーズって何だったんだろ」とか、「Face Down」聴いても「大野智の聡明キャラって妙にハマってたよな」とか、挙句の果てには「Løve Rainbow」を聞いても「曲はいいのに松本潤の月9作品としては残念な視聴率だったな」とか余計なことを思い出してしまう始末。
やっぱりドラマとか映画のタイアップばかりだとどうしてもその「ストーリーや世界観」に資する楽曲ばかりになってしまって、どうしてもドラマとか映画の内容に引きづられてしまって(「Bittersweet」で「君」って言われると、うっすら石原さとみ出てきちゃうみたいな)、音楽的に自由な発想の作品がシングルとして発売されにくいという問題点もあると思うのですよ。
対して、「きっと大丈夫」とか「Everything」とか「Step and Go」とか「愛を叫べ」とか「復活LOVE」とか「PIKA★★NCHI Double」とか、ましてや「A・RA・SHI」とかの、全員出演作品のタイアップとか、メンバー非関与作品タイアップって、純粋に「あっ!嵐!嵐ーーー!!!!これは嵐!!!!!」ってなるじゃないですか。わかります?この感じ。この感じがもっと欲しい!
自分が想定してるのは、SMAPのやり方なのかもしれないと思ってます。SMAPも個人出演作品のタイアップはたくさんあるんですけど、当然そうじゃない作品もたくさんあって、それが実は「SMAPっぽい=音楽的に自由で新しい」シングル群の世界観を作っているんじゃないかな、と。その秘密はすごくシンプルで、90年代と10年代後半に多いんですけど、とりあえず「SMAP×SMAP」テーマソングにしちゃうという。すごくないですかね?
「青いイナズマ」「SHAKE」「ダイナマイト」「Peace!」「夜空ノムコウ」「朝日を見に行こうよ」「Fly」「Let It Be」「freebird」「This is Love」「Mistake!」「Top Of The World」「Otherside」
これ全部SMAP×SMAPのテーマソングなんですよ。どれも「SMAPらしい」、そして「ちょっと音楽的に挑戦している」楽曲が多いじゃないですか。特定のストーリーに依存しない、楽曲だけで世界観を打ち立てられるんですよね、このやり方だと。あと自身の番組のエンディングでバンバン歌える。
「Step and Go」はVS嵐の前身番組、松居一代が大活躍の「GRA」テーマソングだったじゃない!あれもっとやりなさいよ!
嵐ももっと「しやがれ」とか「VS嵐」のセットで歌いなさいよ新曲、I'll be thereの時みたいに。
「Everything」を「ヒミツのアラシちゃん」のセットで歌ったやつ、すごくよかったじゃないのよ!あれ好きなのよ!
偶然にも「夏疾風」は55枚目のシングル。SMAPがいまだ出せていない「56枚目のシングル」からは、この流れに乗って、例えば「嵐にしやがれ」や「VS嵐」テーマソングなんかで、自由で面白い、「嵐らしさ」の領域を押し広げるようなシングル曲を期待したいなんて思ったりします。
ということで、一覧にしてみました。出典はWikipedia。誤りや認識違いはTwitterやコメントで教えていただけると助かります!
28枚目以降がヤバいっすね。